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zoom RSS ママジュリアスの青い空

<<   作成日時 : 2016/03/23 21:14   >>

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 写真を探していた。レンガ色の家の玄関前に立って笑顔で手を振るママジュリアスの写真だ。レンガ色の家は、ママジュリアスがおととい(今月21日)天国に旅立つまで、長年住んでいたバガモヨの家だ。その色彩も笑顔の温かみも手に取るように覚えてるのに、写真はみつからない。いったいいつ撮ったものだったのだろう。

 ママジュリアスの夫は、今は亡きタンザニアを代表する民族音楽家、フクウェ・ザウォセ(ムゼー・ザウォセ)だった。ジュリアスは長子の名前。彼女の名前はエリカだけど、ずっとママジュリアスと呼ばれていた。

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ママジュリアスとお孫さん・2000年


 1946年にドドマの村に生まれ、1961年、15歳の時に26歳だったムゼー・ザウォセと結婚した。まだムゼーが名もない村の音楽家だったころに。その後、さらに4人の妻を持つムゼーだが、一番最初に結婚したのがママジュリアスだった。文字通り苦楽を共にした二人だったのだろう。ママは、会うたびに気持ちがほっこりするような、大きな温かさを持った人だった。

 1996年にわたしが、まだ小さかった二人の子どもを連れてザウォセ家に1週間ほど泊めてもらったときには、ザウォセ家にはママジュリアス以外に2人の妻がいた。長男のジュリアスはすでに結婚していて、長女の(現在わたしのイリンバ師匠でもある)タブは小学校を卒業していた。まだ小学生だった娘たち、エステリとンデークワがママジュリアスの部屋に一緒にいて、よく家事を手伝っていた。ンデークワの父はムゼー・ザウォセだが、母親は当時すでに亡くなっていた。けど、ママジュリアスの部屋では皆、ママの娘なのだった。

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1996年の写真、ンデークワ(左)とエステリとママジュリと男の子たち


 2006年にドドマの村の教会で行なわれたタブの結婚式にも体調が悪くて、ママは参加できなかったから、だいぶ長いこと体調不良が続いていたのだね。いろいろ治療も受けていたけれど、ここ数年間は病気でずっと家の自分のベッドの上にいた。娘のタブたちが食事や身の回りの世話をしたり、杖や器具の助けを借りてもマゾエジ(運動)をしたほうがいいよと励ましたりしていた。
 
 お見舞いに行くと、温かな手でわたしの手を握ってくれて、わたしの子どもたちや夫は元気かと訊いてくれるのだった。孫たちが部屋を出たり入ったりしていることも多かった。おばあちゃんが大好きだったんだろう。去り際に「今度はいつ来るの?」と訊かれるのでいつも後ろ髪を引かれるようだった。

 昨日22日にバガモヨのザウォセの家で行なわれた葬儀には、500人もの列席者があった。
 ドドマの村からも親類縁者も駆け付けた。80歳を超えているフクウェ・ザウォセのお兄さんの姿もあった。

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ザウォセ家に集まった人びと


 埋葬の時間まで女たちが集まる部屋の壁の上には、笑顔のママの小さな写真が貼ってあった。その下で女たちは教会でうたう歌を、「ハレルヤ、Tutaonana(また会いましょう)」などと手拍子を取りながら歌うのだった。

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 真っ青な空の下、泣いている娘や孫たち、歌い続ける女たち、汗をかきながら体を動かす男たち、とても多くの人びとに見送られながら、ママジュリアス、エリカさんは、ザウォセ家の裏庭にあるフクウェ・ザウォセの眠るすぐそば(チャールス・ザウォセの隣)で、永遠の眠りについたのだった。
 7人の子どもたちと24人の孫たちを残して。

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お花を供える


 見上げるとほんとうにまぶしい青空なのだった。悲しい時には空を見上げればいいんだね。たくさんのありがとうの気持とともに。どうぞ安らかにお休みください。

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 ムゼー・ザウォセ亡きあとの大黒柱はママジュリアスだったのかもしれない。


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