『物語 ナイジェリアの歴史』☆そしてビアフラ国とニエレレと

 ナイジェリア最大の都市ラゴスは、コンゴ民主共和国の首都キンシャサと並んで、わたしの中では、猥雑で混沌として騒々しくてごった返してる奥深い魅力的な都市なのだった。いつかは行ってみたいと焦がれつつもまだ未踏の地である。

 『物語 ナイジェリアの歴史』島田周平著(中公新書)を読んだ。
 このシリーズでアフリカの国を取り上げるのはこれが最初ではないかしらん。これからどんどん出てきたらいいな。アフリカの国!

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 ナイジェリア、国の面積は日本の約2.5倍とタンザニアとそう変わらないが、人口はアフリカ一の1億8869人(2018年)で、世界でもインド、中国に次ぐ第三位だそうだ。経済規模もアフリカ一位のGDP(3,763億ドル:2018年)を誇るアフリカの大国である。

 『物語』は紀元前のサハラ交易から始まる。紀元前6世紀から紀元前4世紀くらいまではサハラ砂漠も湿潤な地域だったそうだ。乾燥化が進み、砂漠化してきて、この交易にラクダが本格的に使われるようになったのは4世紀以降だろうとのこと。
  サハラ砂漠の真ん中で採れる岩塩はサヘル地域をはさんだ南側の「スーダン地域に住む人々にとっては欠かせない生活必需品であった」(P.9)。
 一枚30~35㎏はある板状の重い岩塩。
 「日中の酷暑を避けるため行進は夜中から午前中にかけて行う必要があり、気温が二度にまで下がる寒い夜中に起き、冷え切った岩塩をいやがるラクダに背負わせ、キャラバン隊は出発する」(P.9)
  まさに月の砂漠をいくラクダのキャラバン!その光景が脳裏にうかんで広がってゆく。

 その後、イスラームが伝わり、小さな王国がいくつか出現し、ヨーロッパ人がやって来る。15世紀以降の大西洋貿易により1,000万人以上のアフリカ人たちが奴隷として連れ去られた。「奴隷の多くが働き盛りの成人男女と子供たちであったことを考えると、この人口損失がアフリカの経済発展に与えた影響は計り知れない」(P.39)

 奴隷貿易が終わったら、こんどはイギリスが植民地支配者としてやってくるのだ。イスラーム社会の北部保護領と非イスラーム社会の南部保護領の統治の仕方の違いなどから生まれた様々な格差は、両保護領が合併されてからもなかなか埋まらず。
  多くの民族からなるナイジェリアだが、北部のハウサ、フラニ、南西部のヨルバ、南東部のイボという大きい民族集団がいて、それが植民地政府の統治にそれぞれの宗教とともに利用されていたことも、ナイジェリアという一つのまとまりを作る難しさとなったのではないだろうか。1960年、「アフリカの年」にナイジェリアも独立するが、その後、ビアフラ戦争が起きる。

 タンザニアに長くいた者として、ひとつ、気になったのが、第八章「独立からビアフラ内戦へ」のところ。
 「ビアフラ内戦が始まる前から北部や西部でイボ人の虐殺が始まり、それから逃れるために多くの人たちが東部に逃げ帰ってきた。北部と西部で殺害されたイボ人の数は三万人を超え、北部から東部に逃げ帰った人は130万人、西部などから帰った人が50万人といわれている」(P.188)
 そして、イボ人将校であった「オジュクは、1967年に東部をナイジェリアから分離しビアフラ国として独立することを一方的に宣言した」(P.181)。

 このビアフラ国の独立を国際社会で一番最初に承認したのが、タンザニア、当時の大統領ニエレレだった。結局この国を承認したのは、他にザンビア、ガボン、コートジボワールの4か国のみだった。187ページの記述では独立を承認したのは「タンザニアとザンビアは、当時の大統領が元大統領アジキウェ(イボ人)と個人的関係があったことが影響し」とある。そういう側面もあったのだろうけど、タンザニアの国父ニエレレがまず先陣を切って「独立承認」したのはそれだけじゃないはずだと思った。

 そう思ったのは、タンザニアの多くの人々から今も慕われているニエレレの姿と、ナイジェリア作家アディーチェによるビアフラ戦争を舞台にした小説『半分のぼった黄色い太陽』(くぼたのぞみ訳:河出書房新社)での記述を思い出したからである。そこには、ビアフラを国家として認めた最初の国としてタンザニアが出てくる。主人公たち(イボ人)の喜びようが描かれ、その夫に「ニエレレは真実の男として歴史に残るぞ」と言わせている。彼が通っていたライジング・サン・バーはタンザニア・バーに名前が変わるのだった。「(承認するまでには、いろいろな複雑な背景はあったかもしれないけど)わたしは、そこに大国の思惑に左右されないニエレレの潔さを感じた。」と以前のわたしのブログにもある。

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 その時のブログには「ムワリム・ニエレレがいたからこそ、タンザニアの人々は皆、スワヒリ語という共通の言葉でわかりあうことができ、宗教が違っても対立することなく混じり合って平和にやってこれたのだ」というタンザニア人男性の言葉も紹介していた。(ムワリムとは先生の意味のスワヒリ語。ニエレレはセカンダリースクールの教師をしていたことがあり、多くの国民からも「先生」と慕われていた)

 タンザニアの歴史と人々のことをずっと考えてきた夫、根本利通に聞いたら、なんと言うだろうと考えた。でも、夫はもういないので、答えてくれるわけもない。ニエレレがそのときなにを考え、発信していたかを調べてみようと思ったのだ。

「国家と統一の基盤は、その参加者たちによる一般的な受け入れにすぎない」
The basis of statehood, and of unity can only be general acceptance by the participants.
「国家は人々に奉仕するように作られている。政府は、国民を外部の敵や内部の不正行為者から守るために設立された」
States are made to serve people; governments are established to protect the citizens of a state against external enemies and internal wrongdoers.
「国家の最も重要な機能ーそれは国民の生命と自由の保護である」
the most essential function of a state - that is the safeguarding of life and liberty for its inhabitants.

 上記はニエレレがビアフラ国を承認した1968年の4月13日に出したという 声明にあった言葉だ。

 つまり、国家がその人々の自由と生命を脅かすとき、その国家はもうその人々のものではない。人々は自らを守るために別の国家を造る権利があるのだと。だからナイジェリア連邦政府下では命を守られていないイボ人たちが作ったビアフラ国を承認するのだと。そしてこうも述べていた。
「人々が恐れる理由があるとき、銃身を通して彼らを安心させることはできない。唯一の希望は、一人の人間として、または一つのグループとして対話することだ」と。
When people have reason to be afraid you cannot reassure them through the barrel of a gun; your only hope is to talk as one man to another, or as one group to another.

 一国の大統領がこういう声明を出したのだ。すごくない?
 国家とは人々の道具である。征服による統一は不可能だと。宗主国から独立を勝ち取ったアフリカの国の大統領であるとしても誰もがこう言えるわけではもちろんなく。やはりニエレレはすごいと思ってしまった。

 でも結局この独立宣言は、国際的支持が得られず「この戦争はまた、分離独立に対する国際社会の冷たさをイボ人のみならずアフリカ人に教えた」(P.186)という結果に終わってしまう。

 『物語 ナイジェリアの歴史』では、「ビアフラの領土として宣言」された東部には「イボ人以外の民族もたくさん住んでいた」(P.184)とあった。
 ナイジェリア連邦政府からイボ人たちが自分たちを守るために作ろうとした国の新しい領土で最前線に立たされてしまったマイノリティの人々がいたのである。連邦軍とビアフラ軍の戦争は「150万人とも300万人とも言われ」る餓死者を含む多くの犠牲者を出す悲惨な戦争となったのだった。
  
 ニジェール・デルタ問題、ボコ・ハラムの出現など今も多くの問題を抱えるナイジェリアという「アフリカの巨人」の太古から現在(2019年の大統領選挙まで!)に至るまで描かれた『物語 ナイジェリアの歴史』。歴史に疎いわたしでも時に映像を頭に描くこともできたりして、興味深く読み通せた。ところどころ挟まってくるコラムが食べ物、文学、音楽などを取り上げていて、味わい深く、ほっとする読み物となっている。
 
 タンザニアでも評判になっていたノリウッドと称されるナイジェリア映画やナイジェリア製の派手なキテンゲなどにも心惹かれる。いつかはラゴス、ナイジェリアに足を踏み入れられるだろうか。

 

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